J a p a n e s e    C u l t u r e

Modern and Traditional Japanese Culture: The Psychology of Buddhism, Power Rangers, Masked Rider, Manga, Anime and Shinto. 在日イギリス人男性による日本文化論.

Wednesday, July 20, 2016


"I am, Because you are"

"I am, because you are"
The sign reads "I am, because you are" or "You are, so I am," which is the philosophy of interdependence (Markus & Kitayama, 1981), or ubuntu, in a nutshell.

Note however that this Japanese interdependence is in the world of speech. The second line reads, "Lets hail each other, and thereby, together do our best." This the above is a slogan encouraging greetings such as "good morning" and "g'day" which the Japanese favour even more than Crocodile Dundee. In the world of language, the Japanese subject, their "I" is "you for you" (Mori, 1999, p.163 complete quote again below).

The interdependence of the Japanese visual self is a little more nuanced. The visual self-encourages and requires an awareness of the social nature of self, and interdependence due to the scopic necessity of focusing upon a surface. This ostensible 'externality' convinces even the Japanese that they are out and out collectivists.

But in the Japanese case, they also believe that the 'the kind old sun is always watching' (See e.g. Akagawa, 2015). Their belief gives them a good measure of independence, and Morality with a capital M. Even if 'everyone else is doing it', the Japanese avoid doing things that look bad because the kind old sun can see them, and they'd feel her displeasure should they do ugly things.

Akagawa, J. 赤川浄友. (2015). お天道さまは見ている. 国書刊行会.
Mori, A. 森有正. (1999). 森有正エッセー集成〈5〉. 筑摩書房.
扨(さ)て私は、「日本人」において「経験」は複数を、更に端的に二人の人間(あるいはその関係)を定義する、と言った。それは一体何を意味しているのであろうか。二人の人間を定義するということは、我々(日本人)の経験と呼ぶものが、自分一個の経験にまで分析されていない、ということである。換言すれば、凡ての経験において、それをもつ主体がどうしても「自己」というものを定義しない、ということである。肉体的に見る限り、一人一人の人間は離れている。常識的にはそこに一人の主題、すなわち自己というものを考えようとする思惑を感ずるが、事態はそのように簡単ではない。それは我々において、「汝」との関係がどれほど深刻であるかを考えてみればある程度納得が行くであろう。もちろん「汝」ということは、日本人のみならず、凡ゆる人間にとって問題となる。要はその問題のなり方である。本質的な点だけに限っていうと、「日本人」においては、「汝」に対立するのは「我」ではないということ、対立するものもまた相手にとっての「汝」なのだ、ということである。私はけして言葉の綾をもてあそんでいるのではない。それは本質的なことなのである。「我と汝」ということが自明のことのように、ある場合には凡ての前提となる合言葉のおうに言われるが、それはこの場合当て嵌まらない。親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように主和得る。しかしそれはそうではない。子は自分の中に存在の根拠をもつ「我」でなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。Mori, 1999. p.163

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